2012年6月7日木曜日
新しいSNS1
Facebookやgoogle+のように一ユーザーが全て同列に平等であり、その数が想像を絶するほど巨大な場合、自分の活動範囲をコントロールして利用するのはむずかしい。母集団が多くなればなるほど可能性と多様性が保証される代わりに、その方向性を出すのが難しいことになる。任意に方向性を望んでいればよいのだが、予め想定した希望の方向性を得るのは容易でない。数年後のSNSはよりドメスティックなまとまりが際立ってくるのだと思われる。ある専門集団やコミュニティのまとまり感が得られるインターフェイスをもつSNSが成功してブレイクするのであろう。
2012年4月10日火曜日
携帯電話はお守りである3
スマートフォンはスマートなのだろうか。あれはよく出来たパーソナルコンピュータであって、通話は付属の機能である。電話にコンピュータが付いた多機能携帯電話と、コンピュータが進化して電話機能を搭載したスマートフォンと進化が違うことがよく指摘される。まあどちらでも良い。大衆に大量消費させるには以前とは違ったなにか新しいものを巧妙に与えれば良いだけである。ただ、あの街中で携帯を使う風景、幽霊のように立ち尽くしたり歩き回ったりする人の姿は気味が悪い。かつて携帯電話が普及してきた頃、一人で立って空中にむけて電話をしている姿は滑稽であった。今は大衆が慣れてしまって、これといって不思議な風景ではなくなった。携帯はオカルトなお守りであるのだから不気味なのはしかたが無いのか。
2012年3月31日土曜日
携帯電話はお守りである2
子どもに携帯電話を持たせて安全かどうか。事件に巻き込まれて、たとえば拉致されてその携帯で脅迫されるのは、たいへんいやなものである。だいたい「たすけてー」などと実況中継されても何も解決しないし、そういう道具として使われるなど犯人の思うつぼである。安全のために携帯を持つのではなく、それとは別に自ら安全を保てるような教育である。危ないところには行かないのが一番。周知のことであるが、地震や災害など緊急事態の時は、中継局の混線でまったく役に立たないだろう。電気を使って電波を飛ばすような端末は、もしもの時、幾つもある手段の中の一つぐらいの認識で良いのではないだろうか。
2012年3月30日金曜日
携帯電話はお守りである
携帯電話はお守りである。神社で授かってくる分身。受験、安産、勝負などに際して、日本人はよくお守りを頼りにする。神通力のより所、身代わり、お守りは色々な使い道があるだろうが、意識をそこにそらすことによって安心感を得ることができる。携帯電話を肌身離さずもち、情報と常に繋がっている安心感を得るというところで、これはお守りなのであろう。携帯電話は便利な実用的道具というより、安心感を所有する役割の方が大きい。しかし、残念なことにほとんど安心感は得られない。
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